現在的弛緩運動:もしまだ笑えるのなら

チャン・ソヨン <レンズタワー> <未来を触るように> <ユア・デリバリー> <マウンテン・ビュー>(《Young Korean Artists 2019:リキッド・ガラス・海》出展作、韓国国立現代美術館果川館、2019.6.20-9.15)

 

紺野優希

 

 

根本的な問いかけからしてみよう。視覚的なものや視覚性とは、何を指すのか。人間の感覚の内、目と繋がっているこの感覚は、しばしば――特に美術と関連したテキストで――可視的なもの、視覚情報、ビジュアルという言葉としても、説明される。先の問いかけには、次のように答えられよう――視覚的なものや視覚性とは、(その)何(か)を指す。聞いたり、匂いを嗅ぐのとは異なり、視覚という感覚は、ある対象に出会う方向を前提とする。嗅覚や聴覚が全方向的な反面、視覚においては、その何かに視線を定める際に、能力を発揮する。したがって、視覚は、対象を雰囲気的に把握するのではなく、「私が見る際に」対象を知覚し、認めるという点で、即時的なものだ。ところが、即時性には、疑わしい面がある。光が網膜に届く「過程」が介入するという点は勿論のこと、何よりも、対象を認知する上で同一視という行為が生まれるからである。この同一視によって、対象それ自体は位置を揺れ動かされる。例えば、カメラ越しの場面を見る際、実際のところはカメラのレンズを経て見る対象であって、それは対象そのものではない。さらに言うと――進めようと思えば、いくらでも押し進められるのが、視覚の特性=視覚性でもある――網膜に映った光が電気として姿を表し、レーダー、モニター、スマートフォンの動力によって情報化されることによって、視覚の即時性が損なわれても、充分に対象が伝達される時代となった。一例として、ニュースで目撃するシーンを、〔それを撮影した〕カメラがあった場所と私たちの目を同一視するだけでなく、事実上それが電気モニターに送出された結果であるという点を忘却したまま、対象そのものと看做している。

 

したがって、視覚的なもの、あるいは視覚における即時的な特性は、対象そのものではなく、同一視の方法に適用した場合においてのみ、効果を発揮する。この同一視の過程には、光と電気――たとえば燭台や街灯、像が映る媒体――たとえば望遠鏡やカメラのレンズ、そして、この二つが複合された発明品――例えば、モニターといった道具が介在する。この3つの見方は、ある一つの対象を見るとき、それぞれ異なる方法で表れる場合においても、対象だけでなく、視線の位置まで同じものとして受け入れる。この同一視については、見ることほど自明なものは無いと、決して言い切れないのは勿論のこと、視覚はすべて同じものと言うことも、不可能だろう。その点を踏まえて、当初の問いかけと、直後の返答に戻ってみよう。視覚的なものや視覚性とは、「視覚(それ自体)とは異なり」、(その)何(か)を「同じものとして」見る――しかし、柔軟に変貌可能な――「複数の」方法である。視覚的なものには、視覚に基づいた認識から抜け落ちる箇所が存在する。私たちが画面を見る際には、画面と言い、望遠鏡で遠くにある対象を見る際には、ガラス越しの風景と言う必要が、そして、スクリーンに投影されたイメージは、白い壁が光を受け止めてくれた結果として、受け入れる必要がある。視覚性、または視覚的なものは、見るがままに=あるものと言うより、見るがまま=あるがままに「見る」、すなわち「看做す」、同一視の関係と言える。

 

ポール・ヴィリリオ(Paul Virilio)は、視覚-活動において重要なのものは、撮影機器の相互可視性(inter visuality)と分析した。イメージが相互に接続され、混合された表示環境、すなわち意識に基づいたヴァーチャル・イメージ、肉眼および光学的イメージ、そして電気やそれによって処理された情報に基づいたイメージの「統合」が、視覚-活動において重要だと述べた[1]。前述の同一視は、ヴィリリオが分析した視覚-活動の相互可視性の条件とも言える。だからといって、この条件の下で、視覚-活動は機械に完全に圧倒されてしまったわけではない。機械に意識を載せた結果、対象をそれ自体ではなく、情報に変換させたイメージとして受け入れただけでなく、その情報を媒体とし、実物に影響を与えられるようになった。例えばビデオ通話は、私が手を振ると、学習したパターンに基づいて偽の人物が手を振り返してくれるわけではない。相手が実在する人物である以上、私が手を振ると、相手が手を振って挨拶をしてくれる。ここでのコミュニケーションは、画面上に変換された情報を媒体として行われる。このように、対象を認知する方法は、イメージの同一視と統合によって行われる。その結果、私たちが対象を認知する際、情報のクオリティ、すなわち送出時の速度や解像度といった通信技術と装置の性能に左右されることになる。

 

同一視は、ここで「同じものを見る」という意味ではなく、感じ方を同一のものとして看做す態度のことを指す。今日、対象を見る際に起こる同一視は、ヴィリリオの言葉を借りれば「露出時間」[2]によって引き起こされる。露出時間は、視覚が即時的という前提を弛緩させる。それは、光を通して網膜に像が映る過程のように、対象が視覚的な瞬間に到着する際の過程を含んでいる。要するに、イメージが到着する時間を露出時間と言う。この概念は、視覚が即時的という通念を否定し、即時性に前提された瞬間的な認知を留保させる。たとえ瞬間的で即時的であったとしても、その内部に到着したイメージは、ある過程と出発点を経て、やってくる。ここで出発点は、(前述した相互可視性をひいてくると)意識に基づいたヴァーチャルな像だったり、直線上の遠くに見える対象、さらには国境を挟んで、会うことのできない対象でもある。物理的な距離感の喪失は、到着地に送出される速度によってもたらされた。その速度がどれくらい速いかによって、今日見ること――主に、デジタル環境において――は、より短い露出時間、露出された時間、そして過度に露出した時間によって、再調整される。その際、視覚と即時性の緊密な関係だけでなく、時間もまた再定義されることになる。露出、つまり対象が姿を現わすことは、速度によって、これから到来するものだったり、到来したものだったり、過度に到来してしまったものとして、出現する[3]。出発するやいなや、すぐに到着地に受け渡される今日の視覚環境では、時空間的な転送過程がほぼ消えうせ、対象の現前と視覚の即時性は、再定義されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《Young Korean Artists 2019:リキッド・ガラス・海》photo (c) MMCA

 

《Young Korean Artists 2019:リキッド・ガラス・海》(2019、韓国国立現代美術館果川館)に紹介されたチャン・ソヨンの映像作品は、過去と現在、未来の年代順的関係ではなく、未来を現在に押しつける関係を表している。四つの映像作品は共通して、遠く離れた時空間の対象を見つめ(ようとす)るが、それは同一視がうまくされないまま、言い換えれば、統合されないまま表される。だからといって作品は、過去-現在-未来の年代順的関係を、意識に基づいたヴィジュアル・イメージ、肉眼および光学的イメージは、電気で処理された情報に基づいたイメージの相互可視関係を、ことごとく切り離し、散在させたりはしない。むしろ作品は、統合行為によって現在に押しつけられた未来を弛緩させ、その過程を解き放してゆく。これは、対象をすぐさま感知し、画面上に現前させるのを批判しているものではない。そうではなく、すでに到着したイメージの代わりに、(今後)到来するであろう時点へ再度出発点を動かし、露出速度を遅らせることと言える。作家が扱う映像という媒体は、主に平面的にイメージを送出したり、位置を定め、顕在化する装置である。アーティストによる減速行為によって、映像では、イメージの時空間的距離感が捉えらている。<レンズタワー>(2019)では、コンタクトレンズが重ねられ、より遠くが見えるようになる過程として現れる。この作品の興味深い点の一つは、それをタワーとして認識する過程にある。映像に登場する対象は、一般的に知られているタワーの形をしていない。垂直的な形をしたタワーとは違って、コンタクトレンズは、一つの点に収束されるよう重ねられる。観客は、モニターを縦にインストールしたこの作品では、レンズを触りながら画面中央に重ねていく様子を見るが、それは望遠鏡のように離れた時空間を見る行為とは異なっている。それは、タッチスクリーンを介し、鳥瞰図として位置を設定して、指でその場所と周辺まで拡大できる、持ち運び可能なデジタル機器による見方――眺め方だ。

 

レンズの向こうに見える離れた場所は、表面上に近接していくことで、<レンズタワー>では、拡大が段階的に行われている。作品はこのように即時的に現前する――言い換えると、露出する――デバイスに基づいた対象が、時空間的な過程が短縮され、より進んだ結果であることを示唆している。ところが、別の見方をすると<レンズタワー>は、また異なる未来を露出していることが分かる。つまり、ストリーミング中のように見えることで、そのイメージは、視界に到着する対象だけでなく、到来する時間と、既に到来した時間を同時に暗示する。ストリーミング中の時間は、実質的に経過していながらも、映像本編の上映時間に含まれることのない奇妙な時間である。言い換えると、それは無の時間ではなく、時間的過程を内包しながらも、本編の映像へ向かってゆく時間という点では除外される時間である。<レンズタワー>では、今日、時空を超えて即時的に露出される対象の現前を緩やかに解き放すことで、平たく表面にへばりついた時空間を解放する。重ねられたレンズの塔は下から撮影されたものだが、日常的に触れるデジタル機器の表面を見る視点として、認識される。この作品で強調された「画面という、また別のレンズ」は、遠い時空間に位置する対象を現前させる装置である。このレンズは、眼鏡のレンズや望遠鏡のレンズの役割にとどまらない。それは、「もっと遠くの、さらなる」対象を露出しようとする。露出によって、間接体験的に対象と出会うことで、我々はより直接的に、その対象に関わろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<レンズタワー>(シングルチャンネル、5分、2019)

 

関わろうとする態度は、画面という媒体を経由しながら動かされる指の動作を介して、離れた時空の対象をより積極的に対処できるものとして、今日現れる。映像作品<未来を触るように>(2019)は、このような同時代的な状況を、比喩を使わずに見せつける。作品に登場する(文字通り)もう一方の手の上に置かれた手(on the other hand)は、同じ空間内で互いに握り合うことなく出会う。イメージとして重ねられた手が画面に登場して、手相を読むことについて、そして今後の未来について、囁くように語りかける。話し手は、将来私は良い暮らしができ、反対に(on the other hand)あなたは良い暮らしができないという話を繰り返す。手相における「今-(既に)に書かれた-未来」の繋がりは、実際に会わないながらも実物に会う/と看做すことと共鳴しながら、到来していない時点を顕在化する。しかしそれだけでなく、作品は、最終的に時空間的に乖離された対象を、他の一方(on the other hand)に置かれることを示唆している。未来という触覚性は、単にデジタル機器を扱うことだけを意味しない。それは、即時性と関係している。視覚の即時性が同一視によって過度に露出するとき、対象は、私が見た途端に目の前に存在するものとして考えられる。いわば視覚は、触覚ほどリアルタイムに対象を感知し、認識するものとして考えられる。

 

 

 

<未来を触るように>(シングルチャンネル、5分16秒、2019)

 

チャン・ソヨンの作品<ユア・デリバリー>(2019)のナレーションでは、触覚と視覚について語られる。触覚がリアルタイムな感覚方式である一方、視覚は、網膜に光が当たる際に時間がかかると語るナレーションと共に、既に記録されているものの未だ露出していない遺伝子について語り、映像には現像中のポラロイド写真とMRIで撮影したものが登場する。手相と同様に、これらはすべて、未来の記録である。より正確に言うと、未来の記録には二種類ある。一般的に、現在に過度に露出された未来であるMRIの記録と、過去の時空間が現在に遅れて到着するポラロイド写真は、対象の時空間を露出するその速度が違うだけだ。前者は、空間的に異なる場所にある対象を撮影技術を介して現前させることができ、後者は、時間的に他の所であった対象をたった今目の前に現前させる。2つのモチーフは、作品の素材として登場するだけではない。<ユア・デリバリー>において、時空の露出速度は一つとなる。会場に置かれたスタイロフォームのオブジェは、空間的にそして時間的に映像作品と他の場所に置かれているが、映像作品に「イメージ」として表れる。私たちは、時空間を異なった方法で占有するオブジェが移送される過程を、すなわち、対象の現前の代わりに「より進んだ」オブジェとして、送出中の「イメージ」と向き合うことになる。

 

 

 

 

<ユア・デリバリー>(シングルチャンネル、7分19秒、2019)

 

未来の記録とは、記録されてゆく、つまり対象を送出したり、現像することで出発できるようにする――作品のタイトルと作中のナレーションを踏まえると「配達」または「出生」するように――動力を内在した、即時的ではないもののことだ。未来が現在に「先手を(投げて)打つ」ような感覚は、事実上、時空間的な一つの点に収束されることなく、乖離している。遠く離れている対象に目の前で出会える統合された感覚は、未来を呼び止める――あるいは、反対に、現在に未来を押し迫らせる――ことで、距離感を感じることなく、体験的に経験できてしまう。ところが、リアルタイム的な触覚による経験がされない以上、視覚の統合感覚は、未来が現在を呼び止める感覚とも言える。<マウンテン・ビュー>の作中(2019)で描写される吐き気とは、対象の時空間的距離感を短縮し、接近する段階で発生するものだ。瞬間の内にクローズアップされ、画面を横切る文章に目を凝らすと、予約や待機という言葉が登場する。それらは、他の映像作品のモチーフと同様に、未来に向かって露出中のものとして描写されるが、近くまで迫った眺望や景色(view)に――作品においても同様に、視覚的に――圧倒される。この圧倒感こそ、作品に出てくる「吐き気」を呼び起こすが、それは眺望や景色のような背景的距離感が急に対象化されて過度に露出された結果である。これに対して作品は、手相を見て推し量る態度ではなく、未来を放っておくよう、未来が現在を押し付けることがないよう、相互可視性の統合を解き放す――それは、<マウンテン・ビュー>の最後のフレーズである「山を山の形として見るには、距離が必要です」という言葉に凝縮されている。

 

 

 

 

<マウンテン・ビュー>(シングルチャンネル、7分24秒、2019)

 

今日、無意識のうちに統合された体験方式では、遠く離れた時空間を「前もって」、現在に押し迫らせる。ヴィリリオが言う視覚-生活は、今の生活に凝縮された露出時間と、それによって加速化・過速化した側面を指している。チャン・ソヨンの映像作品は、今日のこのような一側面を示唆しながら、映像によって解き放す。<レンズタワー>の時間的・空間的零点、つまり消失点は、一つの表面に統合される。チャン・ソヨンはこの統合を再び解き放すように、<未来を触るように>の、現在対面する(もう一方の)未来、<ユア・デリバリー>では未来に露出される写真や遺伝子、そして<マウンテン・ビュー>で表面に――「継ぎ目のない表面」という、字幕にしては、あまりにも大きな一文のように――へばりついた眺望や景色は、短縮された時空間と、その弛緩を映像に表している。

 

<マウンテン・ビュー>における即時的反応、それは、日本語のネット環境で笑いを意味するwが繰り返される場面で、字幕は「笑うな」とすぐさま反応するものとして現れる。同じ文字と記号の機械的な繰り返し、それは道化師や、チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin)の映画に出てくるシーンのように、笑いを誘発する。アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson)が分析したように、笑いとは、体に機械的に記録された状況に、適応していない場合に起こるものだ[4]。ベルクソンが笑いを硬直、つまり社会的な硬直を弛緩させる役割として見たのに対し[5]、チャン・ソヨンの作品では、笑い自体が硬直したパターンになってしまった今日の状況を捉えている。硬直状態を解放する役割をしていた笑いさえも、オンライン環境では共感や反応のパターン化された感情として、機械化されてしまった。そのような側面を踏まえると、wの羅列に「笑うな」と言葉を投げかけるほど、見る人にとって面白いことはない。4つの作品を見て、私たちは、時空間的統合に基づいた体験的な経験から距離をとって「見れる」だけではなく、その会話が誘発した笑いを介して、現前を(もう一度)見出すことができる。そうして観客は、殺到した(未来的な)未来と統合されたデジタル社会から距離をとって、今の身体を再獲得することができる――少なくとも私の体が、視覚-生活の統合に収束できない場所に、残されているのなら。

 

 

 

 

<マウンテン・ビュー>(シングルチャンネル、7分24秒、2019)

 

[1]  ポール・ヴィリリオ,『瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方』 (Paul Virilio, L'Inertie polaire : essai sur le contrôle d'environnement, éd. Christian Bourgois, 1990.) 土屋進, 新評論, 2003, p. 154

[2] ポール・ヴィリリオ,『瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方』, p. 160

[3] ポール・ヴィリリオ,『瞬間の君臨―リアルタイム世界の構造と人間社会の行方』, p. 160

[4]  アンリ・ベルクソン,『笑い』, 林達夫, 岩波文庫, 1991, p. 35

[5]  アンリ・ベルクソン,『笑い』, p. 27-28